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メダカの兄貴分
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めだか通信
第2回 三月
メダカの兄貴分
弥生三月といえば三日の雛祭り。飾られた人形よりも、雛あられ・草餅・白酒…の方が気になられた方も居ることでしょう。
花では 椿・梅から杏子・桃・菜の花……そして 桜はまだかいな…と梅見酒を傾け乍、花見酒を待ち望む御人もあるのでは…? 気になるのは「つまみ」?
弥生も半ばになると、田打ち前の田んぼには田芹が生え、陽当りの良い川原や土手・空地等には、蓬(よもぎ)・野蒜(のびる)・土筆等が顔を出し、みんな美味しそうに手招きして見える。
田芹はやっぱり「胡麻和え」、土筆は三杯酢か、薄く甘辛に煮付けるか。炒めて味付けしてもよいが、江戸っ子には辛子和えか。蓬は草餅に、ギボウシや野蒜はやっぱり味噌がいい。「ぬた」で食べるのも好いが、湯がき加減が難しい。芽甘草を湯がいて酢味噌で…というのも悪くはないが、開く直前の蕾を御浸しで…というのも悪くない。タンポポの茎もほろ苦さが好い。自然な甘味と苦味が、馥郁(ふくいく)とした広がりを以て春を感じさせてくれる。
今日都会ではこれらの野菜と付き合うことが難しくなってきている。原因は自然環境の変化と伝承の断絶である。後者には親の手抜き=所謂「御袋の味」・外食による味覚の鈍化、が大きく影響していると思われる。地方に行くと、けして豪華とは言えない郷土料理の中に、日常の郷土の味があり、都会では得られなくなった自然の力強い豊かさを感じさせてくれる。素朴な料理ではありながら、都会で得られる様な、一見 洗練され、豪華な料理ですら、その前には輝きが薄れてしまう力。
ファーストフードの挑戦は食文化の破壊に等しいと云ったら言い過ぎだろうか?植物も川魚も近年の外来種に追いやられて姿を消しつつある様だ。所謂「生態系の破壊」である。その多くが人間の身勝手さに起因していることも否めまい。江戸時代に戻そうなんてことはナンセンスで思いもよらないことながら、幼い頃の小川で遊んだ風景が懐かしい。
「文明」って一体何だったのだろう? 「文化」とは? 我々の文化は文明をコントロール出来ない程に脆弱(ゼイジャク)だったのか? 人間の我儘気儘によって環境が変化することは、いずれ自身に帰ってくる。仏教に言う「因果応報」であろう。
「蔬菜」と「野菜」 今日混同され、余程意識しない限り辞書ですら同じに受け止められている。本当に大自然の恵みを感じさせる「野菜」…人の手によって作られたのではなく、自然の営みに回帰する時、人間も又、大自然の一部であることに思い至るのではないだろうか。
又、自然の営みを採取するにはそれなりのマナーがある。それを守れないのを『野蛮人』という。独り占めしてはいけない。その場から根絶やしにする様な横暴さがあってはならない。等々…人間 金が絡むと欲望に支配されることが多くなる。何事も『程』が大切。大自然に生かされているという事、これを忘れると驕りが生まれ、愚行が生じる。開発という、一見正当性を持ったかの様な美称を以てしても、所詮、自然破壊の行為以外の何者でもないという事、人間がその正当性を主張すればする程「驕り」以外の何者でもなくなる…とは考えないのだろうか?
自然の持つ力の前には人間の力など微々たるもの、その回復力はすごい。しかしいったん破壊されてしまった生態系が、元に戻ることは難しい。
などとはいっても春の野草は美味い。鎌倉の極楽寺駅近辺に「野草を食べる会」があると聞く。この味を失わない為にも人は謙虚であらねばと思う。
旧暦ではあるが2月25日は聖徳太子の命日とされている。今日、春の御彼岸に続く24・5日には奈良・法隆寺で『聖霊会』が行われる事は有名だ。
彼はこの日本に仏教という「哲学」と「宗教」をもたらし、今日言われる日本的精神風土・及び文化の基とならしめた人であると考えられる。
4月8日は『華祭』=釈迦の誕生会である。又、古都鎌倉では日曜日より『鎌倉祭』が始まり、八幡宮では『静の舞』や『やぶさめ』等、関連行事が多く営まれる。
《 春の海 ひねもす のたりのたりかな 》
上に桜の花 下には牡丹・芍薬である。何れもその薬効を言われるが、椿の花びらの天ぷら・牡丹の花弁の酢の物、桜の花は塩漬けで桜湯…等々、五感を楽しませてくれる。
花の咲くのを見て楽しみ、又、口にして楽しむ。日本に生まれてヨカッターと思うひととき。
春のポカポカ陽気のもと、御茶セットを持って野歩き等いかがかな?
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